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旅 時々 Photo ところにより にわか雨 
旅行と写真好きな管理人が、旅に関する色々な情報を自分勝手に提供します。☆☆現地情報やツアー情報等満載☆☆
ペルーの旅 『 3日目 クスコ~ウルバンバ 』


海抜数メートルのリマから3000mのクスコへ一気に37やってきてしまったので、
高度順応のため、ウルバンバまで下りてから(と言っても2800mはありますが229)、
宿泊することに。

クスコからウルバンバへは、山道を2時間ほど走ります。34

途中、北海道・富良野のパッチワークの丘のような綺麗な景色がありますが、
高山病予備軍眠気乗り物酔で、ほとんど覚えてません。(↑バジルの記憶)

レモンにいたっては、全く記憶がありません。でも、眠っていたわけではありません!
目も開けられないほど苦しかったのです240。1分1秒が戦い・・・。
観光の後がこんな山道の移動だと知っていたら酔い止め飲んだのですが、知らなくて・・・。
高山病とのダブルパンチです201 朝も早く、寝不足でトリプルパンチ?!
ウルバンバに着いた時には立ってるのもやっとでした182
(ツアーの中ではワカモノ組なのに、真っ先に倒れて情けなし・・・182

クスコ近郊は、インカの中枢をなした遺跡や村々が残され、この辺り一帯は、
『インカの聖なる谷』とも呼ばれています。

今回のツアーでは、聖なる谷の遺跡群を見る機会はなかったですが、時間があれば
是非、色々見てまわりたいところです。

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ペルーの旅 『 クスコ・街の全景 』


クスコの北の山から、街を一望できます。  (西→東 に撮影)


クスコ全景1


クスコ全景2

写真中央 少し右に見えるのが、アルマス広場です。

クスコ全景3

山には、 『 VIVA EL PERU (ペルー万歳) 』 の文字が見えます。



ペルーの旅 『 3日目 クスコ(6) 』

サクサイワマン (SACSAYHYAMAN) ★★☆

クスコの北西にある堅固な要塞後。
建設は第9代皇帝パチャクティの時代に始まったといわれている。
宗教的なものなのか、要塞なのかははっきりしていないが、クスコの町が一望できる
好立地にあることから、クスコの管理事務所的な役割もあったと考えられている。

遺跡は3層の巨石がジグザグを描きながら360mにわたって続く。
石組みの技術は、インカのそれらしくぴったりとかみ合い、とくに内側の高さは約5m、
約360㌧(!)もある巨石が使われている。
使用された石は郊外からだけではなく、遠くはオリャンタイタンボからも運ばれ、一説に
よると、完成までに1日およそ3万人(!)を動員して約80年かかったという。

1536年5月、スペイン人に反逆を企てたマンコ・インカは、サクサイワマンの要塞に
2万の兵士とともに陣取った。しかし、夜は戦わないインカ兵はそのすきをつかれ、
作戦は失敗に終わった。
約20mあった城壁もその上からそびえていた円筒も大部分が壊されてしまった。

現在、毎年6月に、太陽の祭り ”インティ・ライミ” が行われ、インカの儀式がそのまま
に復活する。


遺跡の前には広ーい広場が広がります。
サクサイワマン2

その大きさと、ジグザグなことにびっくりします。(そのまんまの感想ですが・・・229
サクサイワマンに着いた頃には、少しずつ体も重くなっていたので、気持ちいい広場ですが
走り回ることはできません230
いっぱい動き回りたい気持ちと、体が思うように動かない苦しさとのせめぎあい・・・。
本当は遺跡の一番上まで上りたかったのですが、一つ一つの段が高いので、登るのに
一苦労。(時間がたっぷりあったら余裕なのですが、この旅、いかんせん自由時間が少ない。
登るためには駆け足203でないと集合に間に合わないのです。・・・。駆け足はムリっ!!)


1層目を上がったところ
サクサイワマン3

私たちの限界、1層目の上(229
ここに登って思ったことが、ちょうど広場をはさんで向こう側にある遺跡?岩場?
に登ったほうが、こちらを一望できてよかったのでは???282
くどいようですが、わずかな時間しかない私たちには、広い広場をかけぬけて向こう側に
行くのは無理です。あぁ、賢い旅人たちが向こう側に見えます・・・。)


岩場はこんな感じです
サクサイワマン1

よーく見ると、この巨石もしっかり加工されて組まれています。
エジプトのピラミッドは、巨石をきれいに四角に加工していて驚きましたが、こんな風に
いろんな形をかみ合わせて積んでいくその頭のいる作業にも敬服しました。
(前列左から3つ目の石なんて、椅子の形してますっっ! これ何角?って石も)






ペルーの旅 『 3日目 クスコ(5) 』


アルマス広場 (PLAZA DE ARMAS) ★★☆

インカ帝国の時代、この広場は2つに区切られ、金銀でできた像がいくつも立っていた。
広場の神聖な土はインカが征服した街にまかれ、代わりに広場には300km以上も離れた
海岸の砂が敷きつめられた。
スペイン統治時代の街づくりは、この広場を中心に行われた。
現在は、カテドラルやレストランなどに囲まれた観光拠点となっている。


ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会
かつてインカの第11代皇帝ワイナ・カパックの宮殿があった場所に建てられた。
今ある教会は1650年の地震の後に再建されたもの。
アルマス広場1


カテドラル
インカ時代のビラコチャ神殿の跡に建てられた。1550年から約100年かかって完成した。
屋根には1659年に付けられた南米で一番大きな鐘がある。
アルマス広場2


広場中心からのカテドラル、ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会
アルマス広場4


カテドラルからの広場
アルマス広場3

見てみたいところは、いっぱいあったのに・・・。 
とーーっても短い自由時間と高山病対策のSlowlyな動きのために、ほとんど何も見れま
せんでした。 (広場一周すら無理でした240) せっかく地球の反対側までやってきたのになぁ。
古都クスコの中心地。楽しみにしていたからしょんぼりです181
カテドラルにも、教会にも、近くのスーパーにも入れず仕舞いです。



ペルーの旅 『 3日目 クスコ(4) 』

12角の石 ★☆☆

12角の石1


12角の石2

これが、その名の通り、『 12角(!)の石 』 です。
壁に触れることは禁止されています。
地球の歩き方に14角の石発見の記事があったので、私たちも探そうと楽しみに
していたのですが、ガイドさんの「そんなの、いっぱいあるよ。」の一言と、自由時間の
あまりの短さに断念しました。ガックリ。せっかく、ツアーの人も一緒に言ってくださったのになぁ。


12角の石3

12角の石があるアトゥンルミヨク通りは、とてもクスコらしい景色が楽しめます。
(人は多いですが・・・)


12角の石4




ペルーの旅 『 3日目 クスコ(3) 』

クスコの街並み

 クスコ街7   クスコ街4
 
 残ったインカ時代の石組みを利用して建物が建てられています。
 リマでは見ることのなかった、民族衣装を着た人も見かけます。(観光客目当て?)


 クスコ街6   クスコ街2

 クスコ街5   クスコ街3

 クスコの街は、細い路地が入り組んでいます。
 建物も2階建てくらいで、古都の趣を感じる街です。


 (おまけ) 恐々登るおじさんが可愛かったので、撮ってみました。
 クスコ街1

 


ペルーの旅 『 アクリャ 』

王は、各民族集団に対して、太陽神に仕える美しい娘たちの提供を要求した。
娘たちは出身の共同体を離れ、 『 アクリャ・ワシ(選ばれし処女の館) 』 に隔離されて暮らした。
彼女たちは、 『 ママコーナ 』 と呼ばれる年老いた処女たちの厳重な監督のもとに、太陽神のために毛をつむぎ、糸を染め、布を織り、酒を造る日々を送った。

もちろん、王の許可なく異性と接することは禁止されていた。
アクリャの貞操は厳しく守られ、館の護衛も去勢された男子があたった。
もし、館に忍び込んだ男がいた場合、その男はもちろん、侵入を許した守衛までもが絞首刑に処せられた。
アクリャたちは、その出身、容貌、能力にしたがって、色々な分類に分けられていた。

ユラック・アクリャ    インカの皇族の血を引くもので礼拝に身を捧げた。

ワイルール・アクリャ  最高の美人であり、皇帝はその中から側室を選んだ。
               (選ばれたものたちはクスコにあるアクリャ・ワシに送られた。)

カコ・アクリャ       皇帝が褒美として、臣下に妻として授けた。

カキ・アクリャ                歌や楽器の演奏に秀で、宮廷の祭典で演奏した。

ヤナ・アクリャ      位、容貌に優れているわけではなく、他のアクリャたちの世話をし、
               家畜の毛を紡ぎ、織物を織った。

アクリャ アクリャ (選ばれた女性たち)


ペルーの旅 『 インカ王の生活 』

新たな王が王位につくと、前王の宮殿から離れ、新たに宮殿を作り、新しい親族集団(パナカ)を作った。王の死後、財産は故王のパナカによって管理されたため、新王は自らの手で財産を築き上げる必要があった。

インカの国力が増大するにつれ、王はますますタブーに満ちた特別の存在となっていった。
インカ王の肉体に触れたものは何人の手にも触れることのないよう特別に封印された箱の中に保管され、後に燃やされた。抜け落ちた王の髪の毛を側女が口にとって食べてしまうところも目撃されている。まさに現人神であった。

王の死後も大勢の使用人たちは、その宮殿に住み、王もミイラとなって生前と同じように宮殿に
君臨し、親族や従者たちも彼に仕えた。
王のミイラたちは、互いに訪問しあったり、ときには生きた王を訪問したり、逆に生きた王が死んだ王のミイラを訪れることもあった。

王のミイラ 輿に乗せて運ばれるインカ皇帝のミイラ
                                 (生前と同様に扱われた。)





ペルーの旅 『 インカ帝国滅亡 』


第11代皇帝 ワイナ・カパックが原因不明の病気(スペイン人たちがもたらした伝染病に侵されたといわれている)で急死したのち巻き起こった王位継承権をめぐる二人の息子の争いは、帝国内に混乱を巻き起こした。この争いに勝利した第13代皇帝アタワルパのもとに、『白い人間』がトゥンベスに上陸、クスコに向かって進軍中との知らせが届く。

ピサロ率いるスペイン兵は、わずか160名。尻込みする多くの兵士たちを叱咤激励しながら、クスコに向かって進軍していた。
逆にスパイを放って、一行の情報を逐一入手していたアタワルパの方は安心しきっていた。
スペイン軍を危険な存在とは思わず、 『 白い人間 』 に会ってみたいという好奇心だけであった。
スパイからの報告を受け、スペイン人が創造神ビラコチャからの使者でないことを確信していた
彼は、スペイン人のことを 『 ソニュカサパ (髭の人間) 』 と呼ぶようになっていた。
太陽の息子であるインカ皇帝に拝謁を求める、単なる訪問者だと認識していたようだ。
実際、 「拝謁が終わったら、去勢して、アクリャ・ワシの番人にでも使うつもりであった。」 というアタワルパの発言が記録に残っている。

1532年11月16日、大軍に囲まれ、豪華な輿に乗って、アタワルパがカハマルカの広場にやってきた。
広場に入って、一人のスペイン人もいないことを不思議に思っていたアタワルパに最初に話かけたのは、ピサロではなく、ドミニコ会修道士バルベルデであった。彼は、キリスト教徒について、説き始める。これに対しアタワルパは、スペイン人たちキリスト教徒の非道な振る舞いを糾弾した。
アタワルパは、バルベルデの差し出した聖書に戸惑い、それを無造作に投げ捨てた。
これが、スペイン人たちの総攻撃開始の合図となった。

インカの護衛兵や要人達は瞬く間に、初めて目にする銃と鉄剣の餌食となっていった。
アタワルパも輿から引きづり下ろされ、捕虜とされた。

アタワルパはカハマルカ市内の建物の一室に監禁されたものの、形上はインカ皇帝として遇された。スペイン人たちは、わずかな兵で広大な帝国をコントロールするためには、インカ王の威光が必要だと感じたのだ。

幽閉の身となったアタワルパは、スペイン人たちが金に対して異常なほどの執着を持っていることに気付き、幽閉されている部屋を一杯にするだけの黄金とその2倍の量の銀を用意するから、自分を解放してくれるように懇願する。
アタワルパの命を受け、貴族、地方の長官たちは先を争って、金銀を集め運んできた。
まもなく、自由の身になるという思いがアタワルパを上機嫌にさせた。
国中の貴族たちも皇帝に拝謁するためにやってきて、うやうやしく跪く。
このころ彼は、兄王ワスカルが将来ピサロと結びつき、災いのもととなることを恐れ、クスコの部下に暗殺を命じた。
しかし、これがピサロをひどく立腹させた。
また、ピサロの部下たちは姿の見えない数万のインカ軍の影に悩まされ、皇帝に対する思い切った処置を要求した。

結局、アタワルパは一度釈放された上ですぐ再逮捕され、スペイン王に対する反逆罪及び兄弟殺しの罪で告訴され、裁判にかけられた。
アタワルパは、火刑に処せられることになった。伝統的な遺骸崇拝を重んじるインカ王にとって、火刑によって肉体がなくなることだけは避けなくてはならなかった。
彼は、カトリックへの改宗を受け入れることで、罪一等を減じられる。

1533年8月29日 インか最後の王アタワルパは絞首刑に処せられた。
こうして、インカは滅亡する。
太陽の御子であったはずの彼に与えられた洗礼命は、ピサロと同じフランシスコであった。


攻撃の発端 中央がアタワルパ。その手前、左側から
                               アルマグロ、ピサロ、修道士バルベルデと
                               通訳のフェリペ



ペルーの旅 『 インカ歴代王 』

インカ帝国は1250年頃から、最後の皇帝アタワルパが処刑され滅亡する1533年までの間に、
13人の皇帝が続きます。


初    代 マンコ・カパック
      ・インカを建国した初代インカ王

第 2 代 シンチ・ロカ
      ・山岳インディオの 『 戦争の勇者 』 に与えられる名 『 シンチ 』 を名乗る。
      ・武力による制圧ではなく外交手腕によってインカの勢力を伸ばす。

第 3 代 リョケ・イパンキ
      ・『 左利きの賢者 』
      ・父の外交政策を踏襲し、近隣種族との平和共存に努力する。

第 4 代 マイタ・カパック
      ・『 偉大にして、卓抜せる王 』
      ・武力による近隣の制圧を行う。
      ・太陽の息子たちであるというインカ族特有の選民思想を最初に具現化した王。

第 5 代 カパック・ユパンキ

第 6 代 インカ・ロカ
      ・インカ帝国の支配者として、初めて名前に 『 インカ(偉大なる支配者・皇帝) 』 
       をつける。

第 7 代 ヤワル・ワカ
      ・『 血の涙を流した男 』

第 8 代 ビラコチャ

第 9 代 パチャクティ・インカ・ユパンキ(1438~1471)
      ・巧みな外交政策、社会政策により、大インカ帝国の礎を築き上げる。
      ・公共事業建設、宿場・飛脚制度の整備、王室の礼典儀式、統治システム確立等
       彼の果たした役割は大きい。

第10代 トゥパック・インカ・ユパンキ(1471~1493)
      ・アンデス全域の征服に力を注ぐ。

第11代 ワイナ・カパック(1493~1523)
      ・アンデス全域の征服に力を注ぐ。

第12代 ワスカル(1523~1532)
      ・宮廷育ちの教養人
      ・異母兄弟アタワルパのもつ強大な軍事力を必要以上に恐れ、4万の大軍で
       戦いを挑むが、インカ帝国最強のアタワルパ軍に徹底的に打ち負かされる。

第13代 アタワルパ(1532~1533)
      ・インカ帝国最後の王
      ・ワスカルとの戦に勝利し、皇帝となる。しかし、ワスカル派に対する残酷な処置が
       帝国内に多くの反アタワルパ派を作り、帝国は混乱と動揺のときを迎えた。



インカ文明は文字を持たなかったので、13代にわたる皇帝の名前は伝承によって伝えられて
きたものを、スペイン人たちが記録したものです。
一般的には、第8代ビラコチャまでは伝説上の人物といわれています。
(資料によっては第7代までが伝説上の人物となっています。)

マンコ・カパック 初代インカ王 マンコ・カパック




ペルーの旅 『 インカの起源 』


インカの始まりは、他の文明と同じように、伝説から始まります。
そして例にもれず、伝説はいくつかあり、矛盾もあります。


伝説 その①

クスコの南東にあるパカリクタンボの洞窟から、4組の夫妻が姿を現しました。
8人の名前は、アヤル・カチとママ・グァコ、アヤル・オチェとクラ、アヤル・アウカとラグア・オクリョ、アヤル・マンコとママ・オクリョといいます。

パカリクタンボを出発した8人は、クスコ付近のグァナカウレの丘までやってきました。
その丘の頂上から、アヤル・カチは石投げ縄を使って石を飛ばし、4つの山を砕き、
4つの谷を作りました。
その力に恐れをなした他の者たちは、金の品を忘れてきたことを口実に
パカリクタンボの洞窟に戻り、アヤル・カチを欺いてその中に閉じ込めました。

そして7人はまたグァナカウレに戻り、そこに1年滞在しました。

クスコに近いマタグアの谷に旅立つにあたり、7人は
 誰か1人がこの地に残って人間の崇拝の対象となり、自分たちの父である『太陽』と会話して、
 人間が繁栄するようにしよう。 
と決めました。
すると、アヤル・オチェが大きな翼を見せ、自分がその役を果たそう と言いました。

アヤル・オチェは、空高く姿を消しましたが、やがてまた姿を現し、アヤル・マンコに
 『マンコ・カパック』と改名し、クスコに住みつくように
という父『太陽』の命令を伝えました。
そして話し終えると石になり、そのまま石像としてグァナカウレの丘に残りました。

マンコ・カパックとその姉妹たちは、後にコリカンチャ=太陽神殿が建てられた場所に家を作り、
インカの政治を始めました。


(あれ? もう一人の男の人は???)



伝説 その②

太陽は、人間の野蛮な生活ぶりをあわれんで、自分の息子(マンコ・カパック)と
娘(ママ・オクリョ)を天から地上につかわすことにしました。

二人はチチカカ湖に降り立ち、北に向けて旅立ちました。

そして太陽の命により、金の杓を投げて、それが地中に沈む場所を探しました。
二人はクスコの盆地のワナカウリの丘につき、そこから金の笏を投げると、それは
地中深く沈んでいき、たちまち見えなくなってしまいました。

2人の兄妹は、クスコに都を築き、周囲の未開な人々を呼び集めて文化を与えて、インカの国の礎を築きました。





『世界・ふしぎ発見!』 古代ローマ地下探検 闇に眠る永遠の都    7月14日放送



『 世界・ふしぎ発見! 』で、ローマの地下遺跡が取り上げられました。
私たちがこの遺跡について初めて知ったのは、 『 NATIONAL GEOGRAPHIC 』の記事を
読んだときです。今回、実際に映像としてみることが出来ました☆



ローマの地下遺跡

ローマの街は、上昇し続けてきた街です。
街は、テベレ川が湾曲する氾濫原に位置しています。街ができる以前、ここは湿地帯でした。
古代ローマの人々は堤防を築いて洪水を防ごうとしましたが、街は度々水浸しになり、土砂が堆積していきました。
人々は、建物を壊して新しいのを造るのではなく、古い建物や道路の上に、新しい街を造っていき
ました。石造りの建物をそのまま土台にしたのです。
そうして一度の工事で、街は2メートルずつ高くなっていきました。
現在のローマ市は、場所によっては、厚さ15メートルの古い都市の地層の上にあるそうです。
埋もれた都市は、そのほとんどがまだ発掘されていません。

ローマ地下

上の図は、サン・クレメンテ聖堂の断面図です。
1世紀後半~4世紀頃までローマ帝国内で流行したミトラス教の神殿を含む初期の建物の上
に、4世紀にキリスト教徒が集会を開いた住居が建てられ、後に教会となりました。
さらに1084年、ローマがノルマン人の軍勢の略奪を受け、その後、この教会の上に現在の
バシリカ式聖堂が建てられました。



ローマには、『 ローマ・ソッテラネア(地下のローマ) 』という地下空間を調査しているボランティア
グループがあり、市当局から依頼されて調査を行っています。
そのメンバーは、外科医や引退した数学教師など職業は様々です。

ローマの地下遺跡は、発掘調査で発見されるより、工事などで偶然発見される事の方が多く、
ローマの人々にとってそれは日常茶飯事のことです。
(建物を建築する際には考古学的な観点から調査が義務付けられています。そして、調査すると
遺跡が度々発見されるので、工事はなかなか進みません。私たちからすると、ステキな街ですが、実際住むとなるとこういうことは苦労しますね。)
発掘作業は専門的技術が必要なため、なかなか進みませんが、今後の調査でこれまでの歴史
を塗り替える発見があるかもしれません☆



『 NATIONAL GEOGRAPHIC 』 2006年7月号に掲載されてります。
バックナンバー、まだあるみたいです☆



失われた文明 インカ・マヤ

今、NHKスペシャルで『失われた文明 インカ・マヤ』をシリーズでやっています。

 第1回(7/  1) アンデス ミイラと生きる
 第2回(7/  8) マチュピチュ 天空に続く道
 第3階(7/15) 密林が生んだ二千年の王国

番組では、CGや昔の書物の絵を使って、当時の様子を再現しています。
遺跡だけじゃなく、その頃の生活の様子が分かってすごく為になります。

オススメです☆




行ってきました!!『ペルシャ文明展』


 行ってきました!!

ペルシア展

ペルシャ文明展に行ってきました。
初日だったので混んでいるかと心配しましたが、あいにくの雨だったのでそれ程でも
なかったです。
ゆっくり、たっぷり 3時間238 も見てしまいました。
(そのあと、腰痛になったのは言うまでもありません。)

エジプト・ローマ・ギリシャ・インカと古代文明好きの私たちですが、
ペルシャだけは、場所柄もあり、なかなか遠い存在でした。

特にレモンは、日本史選択だったので、ペルシャ帝国という名前しか知りませんでした。
その帝国が一時期エジプトまでをも支配し、”世界の半分”とたたえられるほどだったことを
初めて知りました。

今回の特別展は、50年ぶりの大規模なものだそうです。
(イラン国立博物館やペルセポリス博物館をはじめ、イランの複数の博物館から
 展示物が集められています。)

ペルシャって、今のどこの国?というレベルの知識しかないまま、今回の特別展を見に
行っちゃいましたが、そこは、7000年の歴史
ペルシャの世界に引き込まれました。
今まで、土器などを見てもあまり興味が沸かなかったのですが、ちょうど、ペルーで色々な
土器を見てきたところだったので、逆にへばりつくように見てきました。

ペルシャは今のイランを中心にした地域で栄えました。
ペルセポリスなど、魅力的な遺跡がたくさんありますが、さすがに今の情勢では、なかなか
行きにくい場所です。
でもいつの日にかきっと!!!・・・

にしても、頑張り過ぎた202。 3時間はやり過ぎ!!!



ALBUM 『 紫陽花 』


なかなか梅雨が始まらないなぁ・・って思ってたら、今度はなかなか抜けきらない・・・。
学校はもうすぐ夏休みだというのに、毎日ジメジメ嫌ですね。
でも、梅雨の季節にもステキなことはあるさっ!ってことで、先日紫陽花を見に行ってきました。
今回はその時出会った紫陽花たちの、お披露目 第二弾!! デス179


(現在ペルー旅行記を日々更新中220 ですが、時々は息抜きが必要です201
 だって・・・ペルーにどっぷりつかってると、他の書きたいことが溜まってくる!パンク寸前201
 それにそれに、ペルーの文明って文字がなかったので、はっきりと ”いつ””どこで””誰が”
 ”どんなふうに”ってのがなかなか確定できないらしくて、参考資料によってそれぞれ言うことが
 微妙に違うのです。
 「あれ?この本こう言ってるよ??」 「でもこっちはこう言ってるね」 「でも現地ではこう聞いた
  よね」 「あれ?あれれ??」 ってのを日々くり返し、格闘していると、発作的に浮気して他を
 書きたくなる! 229


というわけで・・・、皆さんも是非!私たちと一緒に紫陽花を見て癒されてください228



ガクアジサイ (隅田の花火)            ベニガク
ガクアジサイ(隅田の花火) ベニガク

                                  フイリガクアジサイ
アジサイ不明     フイリガクアジサイ


生まれて初めて、わざわざ紫陽花を見に行きました。
紫陽花に、こんなにもたくさんの種類があったなんて知りませんでした。

ガクアジサイ(隅田の花火)
池に浮かぶ睡蓮の花をイメージして撮ってみました☆
白色がとても清楚な感じで、大好きになりました。

ベニガク
ほんのりピンクで、ちっちゃい蝶々が飛んでるようで、かわいらしかったですよ☆

左下の方は・・・
・・・名前を見てくるのをうっかり忘れました。

フイリガクアジサイ 
葉っぱの一部が白色なのが特徴だそうです。
紫陽花の葉っぱのイメージって、深い緑色。上に咲くお花がとても映えます。
でもフリイガクアジサイの葉っぱも、ぱぁっと明るく感じてステキでした☆



-おまけ-

紫陽花の名前の由来  真青の花が集まって咲く姿から、集めるの「あづ」に、真青を意味する
               「さあい(真藍)」がくっついて「アズサアイ(集真藍)」となり、それが変化
                して「アジサイ」になったと言われています。  (園内案内図より)



ペルーの旅 『 インカの黄金 』


太陽の神殿=コリカンチャの壁には、幅20cm以上の金の帯がつけられていたと言われていた。
神殿の庭にある金の泉からは水がサラサラと流れ、金の石が敷きつめられた畑には金のトウモロコシや樹木が植えられていた。枝には金の鳥がとまり、地面には黒っぽい宝石をはめ込んだ蛇が這っていた。さらに、20頭の金のリャマや、同じく黄金製の石投げ縄や杖を持つ牧童の像、りんごの木から実をもぎ取ろうとする少女たちの黄金像などが置かれていた。
また、金で覆われた太陽の祭壇があり、そこにはぶ厚い金の太陽像が日の光を受けて、
きらびやかに輝いていた。

これらの黄金は、スペイン人により全て取り除かれ、本国に持ち去られてしまう。
国王へ献上するための船は、1533年~34年にかけて続々とセビーリャの港に入った。
この頃に荷降ろしされた財宝は、金銀製の食器を除いたものでも3tを超えた。
ヨーロッパではあまりに大量の金が一時期に流れ込んだため、インフレになったと記録されている。



インカの黄金はスペイン人によって、全て金ののべ183に変えられ、本国に持ち去られたそうです238

せめて、それらの芸術品はスペイン本国で大切にされた というならまだ救われるけれど、
のべ板にされたなんて・・・240
略奪行為は徹底されていて、スペイン人征服者たちは帝国中に出かけていって、金銀を奪取しました。
さらに、石壁を崩すと隠し部屋が現れ財宝が見つかる ということもあったので、美しいインカの建物は次から次へと破壊されていったそうです。

なんか、スペインの人の印象が・・・195
(でも、いつの時代、どんな場所、どんな人々でも、こういうことは起こってしまいます・・・181



インカ=黄金のイメージがありましたが、実際旅してみて黄金に出会ったのは、リマにある
黄金博物館でのみでした。229 (博物館自体は大きくありませんが、展示物は素晴らしい!)



ペルーの旅 『 3日目 クスコ(2) 』


サント・ドミンゴ教会/太陽の神殿(IGLESIA DE SANT DOMINGO/QORIKANCHA) ★★☆

インカ帝国を征服したスペイン人は、コリカンチャと呼ばれた太陽神殿の上部を壊し、その土台の上に教会を築く。太陽神殿には黄金が溢れていたが、これらは全て、スペイン人により持ち去られた。
コリカンチャとは、インカ帝国時代のこの宮殿の呼び名で、『コリ=黄金』、『カンチャ=居所』を現す。コリカンチャはインカ帝国において最も重要な太陽神殿であり、クスコのエリートしか足を踏み入れることが出来なかったと伝えられている。

インカ帝国時代のものは土台の石組みしか残っていないが、この見事な石組みは、クスコにて大地震が起こった際にもひずみ一つ起こさなかった。


サント・ドミンゴ教会(裏)
サントドミンゴ教会1


サント・ドミンゴ教会
サントドミンゴ教会3


サント・ドミンゴ教会(裏庭より)
サントドミンゴ教会2

教会部分(れんが造りのように見える部分)はスペイン人によって建てられました。
少し分かりにくいですが、写真中央の階段の向こう側、曲線に組まれた石組み部分が
インカ時代のものです。


教会内
サントドミンゴ教会内部1


教会内
サントドミンゴ教会内部4

教会内部は、今は教会と博物館が合わさったような感じです。


サントドミンゴ教会内部3


サントドミンゴ教会内部2

ここの廊下には、宗教画が数多く飾られています。
クスコの宗教画は、スペイン人がインカの人々に書かせたものなので、ヨーロッパのものとは
少し違った宗教画になっています。
(遠近法がうまく表現されていないなど、早い話が技術を完全に習得していない人が書いた
絵です。でも、それがクスコの宗教画の人気の秘密でもあります。)


ここでは、インカ時代の石組みを前から裏から横からじっくりと見ることが出来ました。
説明を聞くたびに感嘆の声。「は~。ほ~。へ~。すご~い!!」
もう黄金のかけらも残っていませんが、地震対策が施された石組みなど、一見の価値ありです。




おまけ
クスコに来て、ひとつ漢字を学習しました。

  『壁龕(へきがん)』
  (意味)かべのくぼみ



ペルーの旅 『 クスコ 』


クスコは、ワタナイ川とトゥルマユ川の間につくられ、インカ時代に神格化されていたピューマの形に設計されたといわれています。
クスコ ピューマ


サクサイワマンの砦をピューマの頭として、クスコの町が胴体になっています。そして、ワタナイ川とトゥマユ川の合流するあたりが尻尾になっています。
二つ川が合流する地区は、プマチュパンと呼ばれ、ピューマの尻尾という意味を持っていたそうです。



ペルーの旅 『 3日目 クスコ(1) 』

旅の二日目。いよいよクスコに移動です。
今日もまた飛行機。毎日毎日・・・飛行機238201

クスコは日本の京都みたいなところです。(注:勝手なイメージです)
かつての首都で、今でもその頃の街並みが残っています。楽しみー237


飛行機の中から
アンデス1

雲の隙間から・・・アンデス山脈 が見えました!!!
雲がなければもっと”ババッ”っと見えるみたいですが、隙間からでも嬉しい!!
飛行機の左側からのほうが見れるからと、リマのガイドさんが手配してくれたお席です☆

もう一つ 飛行機の中から
アンデス2

向こうの方に、すっごく綺麗に雲が映った湖を発見!!!
あきあきしてる飛行機の機内での小さな喜びでした☆


クスコ上空
クスコ上空1

クスコの町が見えてきました。
上空から見ていてもリマとは全く違う雰囲気です。建物がみんなオレンジ色
高い建物も奇抜な色もあまり見当たりません。


クスコ上空 その2
クスコ上空2


クスコ上空 その3
クスコ上空3

ビターっと窓に張り付いて下を見ていたレモン。
何やら不思議な山?遺跡?発見!
でも、結局何か分からずじまい・・・。
(つまりはこの後の旅を頑張りすぎたため、ガイドさんに聞くのを忘れたのです。 クスン。)


クスコの空港に到着
クスコ空港

久しぶりに、飛行機から直接空港に入れました。
(昨日一日の飛行機(3回)と今朝のこの飛行機に乗るときは飛行機⇔空港間は”歩き91”でした)


空港でたら・・・
クスコ空港前1

クスコの楽しいガイドのMさん(クスコNO.1ガイド?!です!!)が待っててくれました☆



ここは、標高3,000mの町。
リマの町で散々高山病について聞かされていた為?、早くもそんな気分。
洗脳されやすいレモンは特にすっかりその気です230

そしてこの後、地獄が始まります・・・。


注: 本当は高山病の症状は、体内の酸素を使いきる頃(2,3時間後)に出てくるそうです。
    ので、レモンのこの症状は、半分は思い込み病です229
   


ペルーの旅 『 2日目 ナスカ(5) 』


観光も終わり、イカ空港へ戻ってきました。
何もないところだけれど、空港です229
イカ空港2


よく見ると・・・↓
イカ空港3

丸く剥がれ落ちています。 なぜ○???  どうやって○???


飛行機の整備場
イカ空港1

飛行機の整備が終わり次第、出発です。
いつ出発できるのか、誰にもわかりません229
なんと整備士の人たちがランチ中とのことで、しばし待機。



リマ空港に帰ってきて分かったのですが、リマ空港発の飛行機が朝の濃霧で
午前中全て欠航となったそうです。
私たちはなぜ行けたのか???
私たちの飛行機は飛んで本当に大丈夫だったのでしょうか・・201

ちなみに日本だと、少しでも天候がよくなったら飛ぶって事がありますが、
(空港もそのように頑張ってくれますが)、こちらはスパッと”欠航”です229




ペルーの旅 『 2日目 ナスカ(4) 』

ワカチナの泉(オアシス) ★☆☆

大きさ100m×60mの砂漠の中の泉。池畔はリゾート地になっている。


オアシス1

砂漠気候の厳しい日差しも、このオアシスの周りだけはほんの少し優しくなった気が。229
ほんの一瞬立ち寄っただけですが、過酷な地上絵観光の後ということもあり、ホッと一息。


オアシス2

砂漠の中に水と木々。
このオアシスは、イメージしていたオアシスそのものです。
ここには、王女様が人魚になったという悲しい伝説があります。
でも、詳しいお話を忘れてしまいました。反省・・・181


車窓から
オアシス4

町の真ん中に、大ーーーーーっきな砂山(?)が!!!183
あまりの大きさと、あまりに家々に近いことに驚いたレモン。

レモン  「この大ーーーーっきな砂山はどうしてできるのですか?」
添乗員さん  「え?砂漠地帯だからです。」
レモン   「・・・。」 (返す言葉もない・・・。)

TVなどで砂漠の景色は何度も見ましたが、まさか一つ一つの砂のでこぼこが
こーーーんなに大きいなんて、知らなかったのです。
ラクダで砂の山を一つずつ超えていくイメージでしたが、実際近くで見上げてみると、
とても超えられそうにない201534534534



ランチを食べたホテル
オアシス7

とーっても気持ちのいいホテルです。
こんな所でゆーっくりぼーっとすごしたいなぁ・・・。
(日本人の忙しい旅行ではムリなのかなぁ・・・181






ペルーの旅 『 2日目 ナスカ(3) 』

イカ考古学博物館(MUSEO REGIONAL) ★☆☆

10体近いミイラや頭蓋骨約5000個、パラカス、ナスカ、ワリ文化時代の土器などが保存されている。

オアシス6


全身のミイラや首だけのミイラがたくさん。ミイラの説明もしてもらえます。
見応えはありますが、ちょっと気分が悪くなりました・・・。直視できない・・・。
ここにあったミイラは、大切に葬るためにミイラにしたものではなく、砂漠に葬ったのが
たまたまミイラになったものや、戦利品として持ち帰った首をミイラにしていたりするもの
ばかりなので、私たちがよくイメージするエジプトのミイラなどとはちょっと異なりました。

ここで初めてペルーの土器を見ました。日本のシンプルな土器とはまた違い、
土器の一つ一つのデザインが楽しめました。
(シンプルなのも好きですが、色んな絵や形があるので面白かったです。)

博物館自体は小さいものです。でも、見学時間が短かったのでもう少しじっくり見たかった
です。(あっでもミイラはもういいです。)


イカの町(車窓から)
オアシス5

日中は暑すぎるためか(?)ほとんど歩いている人がいませんでした。
リマとも、この後行ったクスコともまた違った雰囲気です。
砂漠気候の町だからかな。



ペルーの旅 『 2日目 ナスカ(2) 』


地上絵の観光は、過酷です。282282282

イカから小型飛行機で地上絵上空まで約1時間。
ここまでで、すでに乗り物酔いが始まる人も・・。(レモンのお腹も怪しい・・・汗)
なんてったって小型プロペラ機ですから。
しかし、ここからが本番!

上空までやってくると、機内の左右どちらの窓からも見えるように、飛行機は∞字を描きます。
しかも思いっきり飛行機を倒します!! 
真上からのぞかないと見えないので、飛行機の窓が出来るだけ真下を見るように、
思いーーーっきり倒すのです。
一つ一つの地上絵に対し、∞字横倒し上下飛行
それがひたすら続きます。もうこうなってくると、後は気力のみ!です。
倒れる人続出!! レモンももちろんダウン。
酔い止め薬やあらゆる対策も、このアクロバティック操縦には太刀打ちできません。
”しっかり見て” ”写真撮って”っていうバジルの声も、だんだん遠くに聞こえるようになり・・。
地上絵を見る目もかすみ始めて・・・。

空港に戻ってきた飛行機からは、ゾンビのような人間が一人また一人。
若しくはよれよれとトイレまで。(お食事中の方、ごめんなさい)
どんな所でも、どんな時にも元気に活動する外国人の皆さんも、今回ばかりはゾンビ化。

地上絵を見れたことは嬉しい。とても嬉しい。
でも、もう二度とイヤです!!!



それでは、私たちが”死ぬ思い”で見てきた地上絵の数々をご紹介します!


イヌ (大きさ51m)
地上絵(イヌ)




クモ (大きさ46m)
地上絵(クモ)

これと同じデザインが描かれたナスカの器が出土しています。
他にも鳥や植物など、良く似たデザインのものがあるそうです。


コンドル (大きさ136m)
地上絵(コンドル)



 サル (大きさ110m)
地上絵(サル)

この辺りにはいないはずのサルが描かれています。
レモンの好きな地上絵の一つです。
このやわらかいデザイン、どうやって描いたのか本当に不思議です。


ハチドリ (96m)
地上絵(ハチドリ)




パリワナ (大きさ280m)
地上絵(パリワナ)




左: 木 (大きさ97m)   右: 手 (45m) 
地上絵(ミラドール)

斜めに走るのが、パンアメリカン・ハイウェイです。
マリア・ライヘが建てたやぐらも見えます。やぐらの高さは約20m。
それと比較すると地上絵の大きさが良く分かります!
ハイウェイはいくつかの地上絵を貫いて走っているそうです。

右の地上絵、”手”だそうです。レモンには横向いた鳥に見えます・・・・。
地上絵には、これ何?っていうものもたくさんあります。
ちなみにこの”手”、向かって右は5本指なのに左は4本指しかありません。
サルの地上絵も4本指です。



写真家の方々は、窓が開く?(ドアが開く?)飛行機をチャーターして撮影するそうです。
そうでなくては、絵はがきのようにくっきりはっきりとは写りません。
それでなくても、全体的に薄くなっているのに・・・。
上下左右揺れる機内では、フレームに収めるだけで精一杯。
一般人の私たちにはこれが限界!!!



ペルーの旅 『 ナスカの地上絵 』


ナスカ地上絵 ★★☆

ナスカ地上絵は、リマの南、約400kmにあるナスカ大地とフマナ平原にある。
具象的な文様はおよそ30程度。直線や幾何学模様まで入れると、その数は、大小
合わせて約300以上あり、現在も発見され続けている。
絵の大きさは、10m程のものから大きいものでは約10km以上にも及ぶ。
地上絵が作られたのは、300年~800年頃、主にナスカ文化の時代である。
空からでしか存在を確認できない地上絵を、誰が、何故、どのようにして作ったのかは、未だ謎のままである。

ナスカの地上絵に関しては、既に16世紀のスペイン人が記録に残している。
20世紀はじめ、上空を飛んでいたペルーのパイロットたちもこれらの存在に気付いていた。
しかし世界的に有名になったのは、アメリカ人ポール・コソック教授による発見、報告以後のことであり、地上絵研究に一生を捧げたドイツ人女性 マリア・ライヘの貢献も大きい。
ライヘ女史は、50年以上の年月をかけ、地上絵の解読と保存に取り組んだ。
パンアメリカン・ハイウェイのそばには、ライヘ女史が私財を投じて建造した観察やぐら『ミラドール』が建っている。
ナスカ地上絵全体

ナスカの地上絵は、どうやって作られたのかわかっていません。
あまりにも規模が大きくて、地上からは、その存在を確認することは出来ません。


地上絵の線は、地表の小石を取り除くことによって、描かれています。
雨がほとんど降らない、太陽の光が照りつけるこの砂漠地帯では、石の表面は黒く焼け焦げてしまいます。その小石を取り除いて、明るい地肌を露出させることで、地上絵のラインは描かれています。私たちが近づいてみることはできませんが、溝の深さは10cm、幅20cmほどで、近くで見たところ、車の轍のようにしか見えないそうです。
現在、地上絵は、高速道路の建設などにより、徐々に消えたり薄くなっていっています。



ペルーの旅 『 2日目 ナスカ (1) 』
いよいよ ペルーの旅の始まりです!
まず今日1日目は、”地上絵”を見にナスカへ☆

― 霧の中、空港から小型飛行機で出発 ―
リマ空港

リマは海のそばの町なので、こういった深い霧が町を覆うことがあるそうです。
飛行機、大丈夫かな・・・。
それにしても、昨日(あっもう今日になってたか・・)やっとリマに到着して、ホッとしてたのに
数時間後にはまた空港・・(悲)。また飛行機・・・(嫌だ・・)・・。
ここに来るために散々乗ってきたから、しばらく飛行機なんて見たくもない気もするけれど、
地上絵を見るためにはいた仕方なし!

ここリマの空港から、中型機に乗ってイカの町まで行きます。
そこから更に小型機に乗り換えて、ナスカ地上絵を上空から見る予定です!



― イカの空港到着 ―
飛行機

リマから1時間程で到着。
何もない空港です。飛行機から降りて、自由に空港建物まで。
一応、この赤いポールにそって歩きましょうってことのようです。
みんな好きなペースで、時々ポールからはみ出たりもしながら、歩いていきます。



―これがイカの空港です―
イカ空港

途中から目印のポールもなくなって、みんな思い思いにゲートまで。
ゲートは、遊園地の出口にあるような、自由に出られるけど、出たら入れませんよー
みたいな代物です。

あまりののどかさにビックリです。
一応のゲートはあるけれど、木の柵を乗り越えてどこからでも入れちゃう感じです。



― 空港の様子 ―
イカ空港2

人もまばらな静かな空港です。
木陰のベンチに腰掛けておしゃべりしたり、1件しかないお土産屋さんをのぞいたりしながら、
ゆっくり時間をすごします。
私たちが地上絵を見るために乗る飛行機は、この空港で手続きをしてから、
時間も飛行機の種類も決まるという、の~んびりツアーです。
添乗員さん→「飛行機、早くなるよう頼んできますね!」
・・・。頼めば早くなるのかぁ178

飛行機を待っている間に、空港の一室で地上絵の説明を受けました。
(地上絵を紹介している日本の番組を見せてくれます。)

その後は、ツアーで一緒のみなさんとおしゃべり☆
今回のツアーは私たちの親世代の年配の方ばかりです。不思議な安心感・・。
旅の達人ぞろいです。ステキな方たちばかり☆ 楽しくなりそう!



― いよいよ地上絵を見に ―
セスナ

私たちの乗る小型のプロペラ機です。
このあと経験する地獄をまだ知るよしもない、はしゃぐレモンです。
(この後・・・死にます)



―機内の中 3人一列 ―
セスナ2

手を伸ばせば天井に手が届くサイズ。
メンバーは私たちツアー12人+操縦士+副操縦士。

イカの空港から飛行機に乗ること1時間。
乗り物酔い対策してきても、プロペラ機の振動がお腹にきて、早くも酔ってきた・・・。

でも、そんな場合じゃあない!!! だって↓↓↓

見えてきましたー地上絵!!一つ目 『宇宙飛行士』!!!

宇宙人




ペルーの旅 『 到着 』 編


             自宅を出たのが朝の5


 
               成田まで 約4時間


             成田で待つ事 約8時間


 
              成田→ロス 10時間



              ロス→リマ  8時間

                   ・
                   ・
                   ・ 


        諸々入れて、しめて・・30時間!!!282
                         (ホントこんな感じ↑になりました202


      とうとうやって来ました237南米ペルー!!37


 


実は、南米だけでなく、北米も今回、ロサンゼルスで降り立ったのが初めてのレモンバジル!!


      ” !!南北アメリカ初上陸189 ”   デス。


リマの空港に降りたち、眠そうに出発を待っている人たちを見て、勝手に”高山病!?”と思っていましたが、ここはリマ!!海抜数メートルです。





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